小さい頃、何も恐れるもののないほんの子供だった頃、ナーシェは陸に上がりたいと駄々をこねたものだった。
実際に、人魚の姿のまま実行を試みて、何度も大人たちに連れ戻されたこともあったほどだ。
それがいつ頃からだろうか、ぱたりと口にすることすらなくなった。
そのことに後から気づいたハルは、小さい頃の憧れがついに効力を失ったのだろうと思った。多かれ少なかれ、同じことを思った大人はいただろう。
だが、ナーシェは忘れたのではなかった。
憧れが消えたわけではなかった。
ただ、成長するにつれて現実が見えてきて、実現することは不可能なのだと悟っていっただけで、胸のうちにずっとある思いはなくなりはしなかった。
数年が経った今、再びナーシェはそれを口にする。
「もう決めたの。わたし人間の世界に行くわ」
「ちょっと待て。・・・何があったんだ、話してみろ」
「何もないわ。わたしは行くって決めたの。だからお願い、反対しないで」
何もかも決定済みで、変更は効かないというような強い態度で、ナーシェは困惑顔のハルを制する。
そのナーシェの態度を見て、どうせ反対しても聞かないくせに、と心のうちで呟きながら、ハルはため息をついて髪をかき上げた。何がどうなれば、いきなり陸に上がるなどという考えにたどり着くのかが解らない。
少し憮然とした表情で、ハルはナーシェにもう一度説明を求める。
「反対も何も、何が起こっているのかつかめないんだけど」
「・・・・・・これ」
ハルがため息混じりにそう言うと、少しの間迷ってから、ナーシェはハルの方へと左腕を差し出した。
その細い腕に光るのは、かつて人魚界の末姫が愛用していた、精緻な作りのブレスレット。
予想もしなかったそれに、ハルは軽く目を見開く。
そのブレスレットはよく覚えていた。それは、キーリエの父であり人魚界の王であるザイラスからの贈り物で、キーリエはお気に入りのそれをいつも身につけていたものだ。
「・・・それ、どこで手に入れた?」
「昼に、女のひとが海に投げ入れたの。わたしそれ見てたの。・・・そのひと、王子の結婚したひとだった。あの、キーリエが好きになった王子の・・・。ねぇ、どうしてこれが、まだ王子の手元にあるの?それにあのひと泣いてたわ。これがあるからあの人はあの女のことが忘れられないんだ、て言ってた・・・」
「キーリエのことか?」
「たぶん、そう・・・。どうして?ひどい・・・キーリエが消えてしまってから、そんな・・・」
ナーシェの中でキーリエはいとこであり親友であり、そして姉妹のようにふたりは仲が良かった。
それだから、キーリエのことになると豊かな感情が更にあふれ、特にキーリエがいなくなってしまってからは、それが悲しみの方向に傾くことが多くなってしまった。
ナーシェが消しようのない悲しみを抱えているのを、ハルは見るに忍びないと感じていた。だからといって、せめて寂しい思いをさせないようにと傍にいること以外、何ができるわけでもなくて。
どうしたらナーシェを元気づけることができるだろう、とハルはハルで考えていたことなど、ナーシェが知る由はまったくない。
このままだと、ナーシェはまたどんどんと深い悲しみにはまっていってしまいそうだった。ナーシェのことだから、きっとブレスレットを見つけたばかりの時もそうなっていたのだろう。そう思うと、ハルは少し切なくなる。何故そんな時に、自分は傍にいれなかったのかと。
だが肝心のことを聞いていないから、その思いも押し込めてハルは話の軌道を元に戻すことにする。
そのキーリエのブレスレットがどうナーシェに影響を与えたのか・・・それは、考えるまでもなかったが。
「・・・・・・話折るようで悪い。けど、そのブレスレットがどうおまえに影響を与えたんだ。まだ聞いてないぞ」
「・・・うん。このブレスレットがすべて思い出させた・・・今までずっとしまってあった、キーリエのことも、わたしの夢も、ぜんぶぜんぶ・・・」
「・・・そうか。それで?」
「え?」
それは、俯いていたナーシェの耳に飛び込んできた、予想もしていなかった言葉だった。
ぱっと顔を上げて、正面からハルの顔をうかがう。
「反対しないの?」
「・・・反対するなって言ったのはおまえだろ。しても聞かないのは嫌ってほど知ってる。それにナーシェがそこまで言うってことは、実現方法が思いついてるんだろう?」
「・・・方法は、お願いしに行くことだけよ。リクシィさまのところへ行って、薬をもらえるようお願いするの」
「それだけは、小さい頃から試していないな」
「そう・・・行ってみる価値は、あると思うの」
小さい頃にどれだけ人間の世界に行きたいと思っていても、海の魔女・リクシィのところにだけは行かなかった。そこは人魚界の果てでとても遠く、幾隻もの沈没船の横たわる荒野を越えた先。人魚もよほどのことがないと近寄らない場所だった。
また魔女のもとを訪れた人魚が少ないため、魔女についてもさまざまな説が飛び交っていてどれが本当かわからない。恐ろしいと言う者もいれば、普通の人魚と変わらないと言う者もいた。
小さい頃のナーシェは、そんな場所に行くのが怖くて遠くて諦めてしまっていたが、今はもう違う。そこを訪れて人間になれるというのなら、喜んで長い距離を行けた。
普段は比較的穏やかで柔らかい性格のナーシェだが、やりたいことや望みに関しては積極的な面も持ち合わせていた。そのギャップに、周りが時々目を見張るほど。この状態になると、何を言ってもナーシェは聞かない。
けれどナーシェの目が、真剣さの中にわずかながら不安を含んでいた。
いくら心の底から、陸に上がることを望んでいるといっても、やはり不安はぬぐいきれなかった。
もし、海の魔女のところまでたどり着けなかったら。
もし、薬を渡すことを拒まれたら。そしてこのまま、夢が実現できなかったら・・・。
考え始めると果てがなく、このままだと不安が増大してしまいそうで、ナーシェは頭を一振りして不安を頭から追い出そうとした。
ハルはハルで、そんなナーシェを観察しながら、やはり放っておけないと思ってしまうのだ。
穏やかなようでいて無鉄砲なところも持ち合わせているナーシェだから、放っておいたら何をしでかすか分からない。もとより放っておくつもりはなかったけれど。
まだ自分の考えに捕らわれて切羽詰っているナーシェを少し見つめてから、ハルはわざと声のトーンを上げて問う。
「それで、いつ魔女のところに行くんだ?一緒について行ってやるから、あんまり考え込むな。なるようにしかならないだろう」
「・・・うん。ごめんね、ありがとうハル」
「今更。いつものことだしな。おまえは目を離すと何するか分からない」
ナーシェは優しく綺麗な微笑みをたたえて、ハルを見上げた。これがお別れだとか、そういうわけではないけれど、今までの分の感謝も含めたような、そんな深い微笑みだった。それが含むものに、ハルは気づかないように努める。
いつもいつも、ナーシェはハルに救われていた。いつも世話を焼いてくれて、心配してくれて、傍にいてくれたらと思う前に来てくれた。気心も知れていて、とても居心地の良いハルの傍から離れるのかと思うと、ナーシェの心は少し痛む。それでもやはり、人間の世界への憧れはとても強く、消し去ることなどできない。
ハルや家族や友達と離れて、二度と会えなくて辛くなるのは分かっている。悲しくて寂しくなることも。
けれどそれでも。
人間界を、ナーシェは選ぶ。
「明日、行くわ」