感動と嬉しさを抑えきれず、ナーシェは浅瀬の岩に腰掛けたまま、自分の下半身についている足をぶらぶらと揺らした。
(・・・本当に、わたしの足 ・・・?)
自分の意志で2本の足は動いているのだと思うと、とても不思議な気持ちになる。
実はリクシィのところへ向かう際に、尾びれを引っ掛けて切ってしまったのだが、その時の怪我はまだ完治せずに左足のひざ下にざっくりと傷が走っていて、触れずともまだわずかに痛みがあった。 歩く時に少しだけ痛むかもしれない、とナーシェは思う。
そうしてひとしきり足の動きを楽しんだ後、ナーシェはついに砂浜へ歩き出そうと、そろりと両足を地につけ、重心を岩から両足へと移した。
(な、に ・・・?)
立った途端、ナーシェの体はぐらりとその場に崩れ落ちる。
体が、重い。 それまでずっと海の世界で生きてきたナーシェには、水中とは違う陸の重力はとても堪えた。 そして、立ち上がると同時に感じた、足の裏から鋭いもので貫かれているような激痛。 もしかするとこれは、薬の副作用なのだろうか。
何とかもう一度立ち上がってみても、体の重みを得たばかりの足で支えるのは苦しいし、足裏の痛みは絶えず感じられた。 気を抜けば意識をさらわれそうなほどにそれはナーシェを苛んで、ひざ下の傷の痛みなど微々たるものだった。
(こんなものに、負けていられないわ ・・・!)
これからずっとこの世界で生きていくというのに、この痛みに慣れないでいては何もできない。 海から離れて、街へ行くのだから。 人間の生きる世界を、この足で歩いて見て周るのだから。 ・・・だから、歩かなければ。
ナーシェは人間の歩く様子を思い出しながらおぼつかない足取りでゆっくりと、浅瀬から砂浜へと歩き出す。 踏み出すたびに、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に耐える。 絶えず痛みは感じて嫌な汗が伝うが、そこに意識を向けないようにしながら、進むこと慣れることだけを考えてひたすら足を前に踏み出した。
すぐ目の前にあるはずの浜辺が、泳げば数秒の距離が、今はとても遠く感じる。
やっと浜辺までたどり着いて、「着いた」と口にしたはずが、喉から音はのぼってこなかった。 そしてナーシェは思い出す。 声はもう自分にはないのだと。
声を失うだけで足を得ることができるなら喜んで差し出すとナーシェは思っていたが、空気の吐き出される音しか上がってこないのを見て取ると、やはり少し悲しかった。 もう二度と、話すことも歌うこともない。 昔からクォッタの音色に合わせて歌うのが好きなナーシェだったから、声を失うと知った時の両親の顔は曇ったものだ。
それを今、誰よりナーシェ自身が感じている。 けれどやはりナーシェにとって得たもの、2本の足は何物にも代えがたかった。
(あそこをのぼって行けば、街へ行けるかしら ・・・?)
今の足取りでいけば1時間近くかかるかも知れない砂浜の向こう側に、低い崖とその上へと繋がっている砂地の急斜面があった。 思い出せば、キーリエのブレスレットを投げていったあの女性も、あの急斜面を駆け下りてきていた。
のぼった先にはきっと、何か違う景色が広がっているはず。 そう思うとナーシェの気分はたちまち上昇した。 この砂と岩の景色、そして時々見かける木々以外、まだ人間の世界は知らなかった。 ここから先に、ナーシェにとっての冒険の舞台が広がっているのだ。
どれほど時間がかかったっていい。 行ってみたい。 行かなくては。
そう強く思って、またナーシェは一歩足を踏み出す。
何度も転んですでにローブも体も砂まみれだったが、それは全く気にならなかった。
「え ・・・!? ちょっ、大丈夫ですか!?」
目の前には人がうつ伏せに倒れていて、青年はそれに気づいた途端、駆け寄って相手の体を抱き起こした。 細く柔らかな肩は、女性のものだ。 だが目深にかぶっているフードのために、相手の表情は見えない。 ぱさりとそれを下ろせばそこには、今までに見たこともないような容姿があった。
フードから零れ落ちた、薄桃色の髪の毛。
それまで彼は、黒と茶以外の髪の色を見たことがなかった。 例外をひとつ知ってはいるが、基本的にこのような髪の色をした人種はこの世界にはいないはずだ。 自分の知識不足ということもあり得るが、とにかく目の前の女性は異国の人なのだろう。
深く閉じて、開かれることのない瞳。 そこを縁取っているのも同じ色だ。
少しの間その鮮やかな色彩に見惚れていたが、声をかけても揺すっても女性はなかなか目覚めない。 青年は次第に焦り始める。
(病気か何かかも知れないし、一旦街に運んだ方がいいよな ・・・)
彼女が倒れていたのは、街と繋がっている海に近い細道だった。 海を見に行こうとしていた彼は、その途中で偶然彼女が倒れているのを見つけた。 ここから一番近いのは青年の住む街だし、さほど遠くない。 すぐに戻って休ませた方がいいだろう。
「あ ・・・」
意識のない女性を抱き上げると、その拍子に見えたすらりとした両足に大小結構な数の傷を見つけた。 気づけば、素足でもある。
彼女がどういう身なりの女性で、どういう訳があるのかはわからないが、青年は少し心配に思った。
早く、街に戻ろう。
ふと目が覚めて、目の前に広がる景色にナーシェは不審を覚える。
視界に入るのは、簡素な部屋と椅子。 扉。 天井。 そして、今いる場所のすぐ隣の窓。
(・・・ここはどこ?)
気がつけば寝ているようで、何かを上からかぶっていて暖かく居心地が良い。 しかし確か、自分は街へ向かって歩いていたのではなかったか。 何故、このような場所に寝ているのだろう。
未だ慣れない重力に、なんとか逆らって体を起こして自分を見ると、ナーシェは白い服を着ていて、腕や指に何か白いものが巻かれている。 何故だろう。
ふと、部屋の外から聞こえてくる喧騒に気がついた。 傍の窓に寄ってそっと開けたナーシェは、目の前の光景に目を見開いた。
目の前に広がるのは、行き交う人々の姿。 笑い声。 見たこともない形の建物。 たくさんの色、知らないものがそこには溢れていた。
人間がたくさんいる。 そして何もかもが異色で、新鮮だった。 ここが人間の街なのではないか。
(でも何故 ・・・。 わたし、たどり着いた記憶がない ・・・)
ナーシェは次第に不安になってきて、新しい世界と希望を目に映してはいても少し怖くなっていた。
「どうしよう」も「どうしたい」も、わからない。 何故、こんなことになっているのだろう ・・・?
答えの見つかるはずのない自問をナーシェが繰り返していると、扉の開く音が聞こえてそちらに目を向ける。 そこには、茶色の瞳と髪をしたひとりの青年が呆然と立っていた。
ナーシェも少なからず驚いて、呆然としてしまう。 知らない場所と知らない人が、急に自分の前に差し出されているようなもので、どうしたら良いのかまったく想像がつかない。 しかし青年が目を瞠っていたのも一瞬で、彼は嬉しそうに笑って中へ入ってきた。
「良かった、起きたんですね。 なかなか目を覚まさないので、心配してたんですよ」
(目を覚まさないで ・・・?)
調子はどうですかと問われて、ナーシェがにこりと笑みを返すと、ほっとしたように青年も同じように笑った。
「覚えてますか? あなた、道に倒れていたんですよ。 それをオレが見つけたのはいいんですけど、どうしたらいいのかわからなかったので ・・・取り敢えず、オレの家まで運んだんです」
気を失って倒れていた ・・・そして目の前の青年が、彼の家まで運んでくれたと言う。 様々な不安はあるが、ナーシェは驚くと同時に感謝とすまない気持ちでいっぱいになった。
(・・・! そうだった ・・・声はもう出ないのよね)
彼に感謝と謝罪を告げようとして何も音が出てこないことに気がついて、ナーシェはまた少し落ち込む。
どうやってこの気持ちを伝えれば良いのだろう。 話すことなしにこの世界で生きていくということは、思いの他難しいことなのかも知れない、ナーシェは初めてそう思った。 かつてキーリエも、同じことで悩んだのではないだろうか。
口をぱくぱくと動かしても決して話すことのないナーシェを目にして、ナーシェが話せないことを悟ったのだろう青年は、表情からナーシェの言いたいことを読み取って微笑んだ。
「全然気にしないでください。 気を失っていたあなたをそのまま誰も見つけることがなかったかと思うと、そっちの方がオレは嫌ですから。 あなたは気分が良くなるまでゆっくり休んでください」
青年の言葉を聞いて申し訳なく思う一方で、感謝もまた大きかった。 言葉で伝えられない代わりに、自分のできる精一杯の笑顔でありがとうの気持ちを伝えようと、ナーシェはゆっくり微笑む。 そのしとやかで鮮やかな笑みに一瞬驚いた青年は、すぐに照れたような笑みをナーシェに返してくれた。