魔法の薬

 

 


その日はとても晴れて気持ちの良い天気だったが、外気は冷たく海水もその比ではなかった。
日の光が届くか届かないかほどの海底にある人魚界には、冷たい水が漂う。その中を早朝から、ナーシェとハルは動き出した。
海の魔女・リクシィの住むところへはかなりの距離がある。それこそ人魚界の最果てで、どれほどの時間がかかるかもわからない。焦るわけではないのだが、可能な限り早くふたりは出かけた。
とはいってもナーシェはナーシェで。どこかおっとりしたところのある彼女は緊張したそぶりも見せず、ハルに海面近くを泳いでいこうと提案すると、おっとりした部分とは対照的の行動派な部分を見せてすいすいと海面へ昇っていく。

「ふぁっ」

「・・・おいっ!ちょっと待てって言ってるのに」

「だって、もったいないでしょう?こんなに天気がいいのに、あんな冷たい海底を行くなんて」

遅れて海面へと顔を出したハルを、ナーシェは彼女らしい柔らかい笑みで迎える。
言った途端ぴゅーっといなくなるのは、ナーシェのお得意で。今までで一体何十回、いや何千回、こうしてナーシェを追いかけてきただろう、探し回ってきただろうと、ハルは思う。思えばそれは、世話役やお目付け役のようなものだったような気がする。
ずいぶん心配させられたし、骨折りだって何度もした。けれど、それも今日で終わり。
今日、ナーシェを無事にリクシィのところまで連れて行き、薬を得て戻れば、すべてが終る。
その時、自分のこれまでの気持ちも終る・・・ハルは苦味のきいた覚悟を、自身に強いようとした。

「ハル?」

そこでハルは、はっと我に返った。顔を少し横に動かせば、そこで気持ち良さそうに朝日を受けていたナーシェが不思議そうな顔をしている。ハルは変な心配をさせないようにと少し微笑んで、何?というような顔をしてみせる。

「大丈夫よ、心配しなくても。お昼過ぎにはきっとたどり着いてるわ」

一瞬何を聞かれるのか、言われるのか、とどきりとしたハルだったが、的外れなナーシェの言葉に内心胸をなでおろす。
そう、そのまま気づかないでいい。気づかない方がいい。ナーシェのためにも、自分のためにも・・・。

「だといいけどな。ほら、もうそろそろ行くぞ。そんな悠長にしていたらいつたどり着くかわからないだろう」

言い残して、答えも聞かないうちにハルは水中へと戻る。日光を受けて、水中でも宝石のように輝くハルの尾ひれを追って、ナーシェも海の中へと潜っていった。

 

 

 

緊張していないと言えば、嘘になる。
もし薬をもらえなかったら、幼い頃からの夢を砕かれて一生海の底で暮らすことになったら、と思うとナーシェは胸が苦しく、絶望してしまいそうになる。だからせめて、極力今の状態を楽しもうと思った。不安をぬぐえはしないが、少しでも心を温かく、穏やかでいられるようにと。それもきっと、自分ひとりではあまり成功しなかったかも知れない。
傍に誰かが、それも心を許せる人がいてくれているからこそ、ナーシェの心は思う以上に穏やかでいられて。ハルが自分の傍にいてくれることを、ナーシェは改めてありがたく感じる。それと同時に、すまないと思う気持ちも。

ハルは無関心であるような表情をして、実はさり気なく気を遣ってくれる。ため息をつきながら、でもしっかり世話を焼いてくれる。ふわりと包むように安心させてくれる。ハルはすべてが優しいとナーシェは思うのだ。
ナーシェの用事なのに、何も言わずに先頭をきって進んでいくその後姿も、気づかせずにペースを合わせてくれることも。
あまりにも優しいから、ナーシェはいつもハルに甘えてしまう。すがってしまうのだ。彼の優しさに包まれると、心地いいことを知っているから。そしてその度に、ごめんなさいと思う気持ちがわきあがる。自分は何もハルにしてあげられていない、と。
だからせめて、笑っていようと思う。ひとつでも少なく、心配させないように。ひとつでも多く、大丈夫なのだと安心させてあげられるように。いつも傍にいてくれて、気にかけてくれてありがとうという気持ちと、大丈夫だからあまり心配しないでという気持ちを込めて。
これまでたくさんお世話になったからこそ、もし自分がいなくなったらその後はハルには自由になってほしい、とナーシェは願いもする。得るものはきっと、たくさんある。違う道を歩んでも、ハルなら絶対に大丈夫。その方が彼にとってもいいのかも知れない、と思うことは間違っていないとナーシェは思う。

何だかんだと言っても、思っても結局は。ナーシェは純粋に、幼い頃からハルが一緒でよかったと、それでいいのではないかと思う。そしてそう思わせてくれるのは、やはり彼自身で。前を行く姿にくすりと笑みをこぼして、ナーシェはすいとハルの傍に並ぶ。
そして、ふたりで顔を見合わせて笑った。ついに、沈没船の横たわる墓場のような荒野が眼下に見えてきたのだ。

ここを越えれば、海の魔女のところへたどり着く。知らず、ふたりの心がわずかにこわばる。
ふたりを取り巻く青が、差し込む光に一層鮮やかさを増した。太陽は頂点に昇り、時は正午を過ぎたばかりだ。

 

 

 

「知っていたさ、あんた達が来ることくらい」

本当にこんな場所に魔女が住んでいるのだろうかと思うほど、普通の家となんら変わらない建物。けれどそこは突き当たりで、周りには鋭く荒い岩以外何もない。ふたりは半信半疑ながらも玄関口をのぞくと、その声と共にこの家の主が姿を現したのだ。
人間のように真っ黒かと思えば実は深い紺色の長い髪に、瞳は他の人魚とさほど変わらない碧色。ナーシェやハルと5つ6つほどしか違わないように見えるけれど、その目には外見に不釣合いな深く鋭い光を湛えている。
彼女こそ、海の魔女・リクシィだった。
リクシィはふたりを中へ入れるなり、面倒くさげに話しだしてナーシェの方を向いた。

「あたしは忙しいからね、余計なことは何も聞かないよ。人魚姫のいとこはおまえだね?おまえが何故ここへ来たかも何が欲しいかも、あたしは知ってる。そしてあたしがそれに見合う代償を求めることも、覚悟はできている。そうだろう?」

「・・・はい」

重く響くリクシィの言葉に、ナーシェは少しだけ体がこわばる。この先に、見たことも聞いたこともないことが待っているのだと思わずにはいられないような、そんな感覚が襲う。けれどそれは恐怖や畏怖からではなく、緊張が促すものなのだと己を叱咤して、ナーシェは魔女の次の言葉を待った。ハルはそのふたりを、ただただ見守るだけしかできずにいる。実際ふたりには何もできず、すべての判断を下すのは目の前の魔女なのだ。その審判をただ待つのみ、それが唯一ふたりに許されたこと。

「あたしが何か奪うとかなんとか、変な噂があるようだけどね、言っておくがあたしは何も奪いやしないよ。代償は、実験体さ。おまえのその体を、魔法の薬の実験台として使わせてもらうってわけだよ」

リクシィの説明によれば、人間の姿になれるという魔法の薬は完成しているものではないという。副作用や欠陥はあるものの、それでも人間にと望んだ人魚に、実験体となることを条件に薬を手渡してきたのだと。ゆえに、人間の姿になった時に何か不具合があったとすれば、それはまだ開発途上の薬のせいであって、リクシィがそれを意図したわけではないのだと、彼女は例の薬の瓶片手に説明した。ということは、キーリエが声を引き換えに薬を得たというのは、単なる噂だったのだろうか。

(人間にはなれる・・・けれど、その後何が起こっても関与しない、と・・・そういうことなのよね)

ここを訪れる前からとうに覚悟のできているナーシェは、そのうちにある決心を鈍らせることはなく、リクシィの言葉ひとつひとつを理解して飲み込んでいった。けれどそのうち、ひとつの疑問が浮かび上がってきた。

「リクシィさま、ひとつお聞きしてもよろしいですか?」

「どうやって、実験の成功・不成功を知るのか、と問いたいのだろう?」

「・・・はい」

「そう怖がらないでいい。この話の運びから大体予想はつくってもんさ。どうやって実験の成果を知ることができるのか、それはまぁ詳しくは言えないがあたしが感じられるようになってるんだよ。そしてもうひとつ、敗者には相応の報いがある」

「敗者・・・」

「そう。『自分が何を願って人間になったか、そしてその願いを叶えられたかどうか』で勝敗が分かれるのさ。もし叶えられたら、生涯人間として生きていくことができる。だがもし叶えられなかったら、その時は海の藻屑となって消える」

「・・・それは、知っています。キーリエがそうでしたもの・・・」

そう言って、ナーシェは少し俯いてしまう。
そう、泡となって消えてしまったキーリエの願いは『王子と会って、共に幸せになること』。その願いが叶わなかったからこそ、彼女は消えてしまったのだ。ナーシェの胸に、影がじわじわと忍び寄る。また悲しみが湧き上がってきそうになる。けれどナーシェには伝えねばならない願いがあった。それは強く切なる願い。そしてそれは、もはやナーシェだけのための願いではない。

「『人間の世界を見て触れて、その中で生きてみたい』・・・それが最初の、わたしの願いでした。けれど今は違います。今は、キーリエの分も精一杯生きて幸せになろうと、強く心から思っています。・・・これが願いでは、足りませんか?」

そのナーシェの言葉に、リクシィは満足げに深く笑んだ。そして手の中でもてあそんでいた細い瓶を、何とも潔く差し出す。

「足りないも何も、そんな強い願いを持っているんなら上等だろうさ。ほら、向こうで精一杯生きるんだよ」

「はい、ありがとうございます・・・!」

ナーシェはその手にしっかりと瓶を受け取って、ふんわりとした彼女らしい笑みを最高に咲かせた。
これで、幼い頃からずっと夢見てきたことが現実になる。一度は心に深く封じ込めた願いが、今叶えられる。ナーシェはこれが本当に現実なのかと疑うほど、信じがたくまた嬉しかった。絶対に、キーリエの分も楽しく幸せに生きようと、今一度強く心に決める。

 

とても幸せそうに微笑むキーリエを見ながら、確かに嬉しい反面空虚な気持ちが胸に巣食うのを、ハルは降伏して受け入れる。
ついにこの時が来たのだと。

 

 

 

 

5話 旅立ちとのこすもの