創世主の名

 

 


青年はカリスと名乗った。 彼に感謝すると共に、人間の世界で初めて出会った人がこの人で良かったと、ナーシェは嬉しくなる。
カリスは少し何か考えるような表情をしてナーシェを見てくるのだが、その瞳と髪の色にナーシェは目が行っていた。
茶色の髪に、茶色の瞳。
人魚の世界にはこのような色を持つ人魚は存在しない。 持ち合わせる色素が、もともと人間と人魚では違うのだろうか。 思えば、時々海辺で人間を見かけても、彼らの持つ色は茶や黒で人魚のそれとは違っていた。 キーリエのブレスレットを投げた女性もまた同じ。 何故こうも違うのだろう。 とても興味深い。
窓から注ぎ込む日の光がカリスの髪の毛を透かして、その茶色が一段と明るくなる。 それがとても綺麗だった。

「えーと、あの。 ・・・聞いてますか?」

「っ?」

目の前でひらひらと手を振られて、はっとナーシェはカリスを見た。 いや、今までも彼を見ていたはずなのだが、どうも意識が飛んでいたようだ。 なんだろうと少し首を傾げて青年を見返すと、彼はふっと笑ってもう一度言い直す。

「あなたの名前を知りたいんですけど、今からペンと紙持ってくるので教えてください」

そう言って青年は部屋を出て、しばらくして見慣れないものを手に戻って来た。 ナーシェが不思議なものを見る目で見つめていると、それらはナーシェの方に差し出される。

(ペン、と、紙 ・・・。 なんだか不思議なものね ・・・)

ナーシェがふたつの道具をしげしげと眺めていると、カリスはその様子に少しだけ驚いた。

(文字、書けないのか ・・・?)

目の前の女性はこの国の人ではないのだろうから、言語を理解できてもここで使われる文字は知らないのかも知れない。 それを思えば何も不思議はなかった。 けれど、ならどうやって彼女の名前を知れば良いのだろうと、カリスは内心首を傾げる。

「きっと、あなたの国の文字とこの国の文字は違うんですね。 じゃあどうやったら、あなたの名前を教えてもらえるかな ・・・」

(わたしもわからないわ ・・・。 人間の文字なんてわからないし ・・・)

ナーシェは苦笑して首を横に降った。 何故か人間の言葉は理解できているけれど文字まではわからないし、逆に人魚の持つ文字はカリスには読めないだろう。 それではお手上げ状態だ。
うーん、としばし考えてから、カリスはじゃあ、と言葉を発する。その間、ナーシェはまた彼の髪の色に目を奪われていたのだが。

「じゃあ、オレがここの文字、少しずつ教えていきますから、書けるようになった時にあなたの本当の名前、教えてください。 それまではあだ名みたいなもので呼んでも構いませんか?」

それがいいかも知れない、とナーシェも少し笑ってうなづいた。
どきどきと楽しみに胸が鳴る。 人間としての自分の名前を、彼がくれるのだ。 これからの新しい生活にふさわしい、人間の名前。

「・・・シルフィール。 この名前、あなたにはぴったりなんじゃないかな。 これはこのアナトリア王国を作ったって言われてる女神さまの名前なんだけど、正直あなたに合いそうな名前なんてこれしか浮かばなくて。 その女神さまも、あなたみたいに色んな色を身にまとってたっていうから。 長いからシェリとか ・・・どうですか?」

言い終える前に、カリスは微笑んでいた。 ナーシェが花がほころぶように、満面の笑みを浮かべたからだ。 これ以上に嬉しそうな顔はないだろうというように。 カリスはそれを承諾と取って、ゆっくりと手を差し出した。

「それじゃあ。 よろしく、シェリ」

その手にそっと自分の手を合わせて、ナーシェは嬉しさと希望をかみしめる。 この気持ちを言葉で伝えられないのがもどかしくはあったけれど。
この瞬間から、ナーシェの人間としての生活は動き出した。

(すてきな名前をありがとう、カリス)

 

 

 

「・・・何なごんでんのよ。 なんかムカつくわ」

「うわ!? なんだよヒオか ・・・。 って勝手に家ん中入ってくんなって、何度言ったらわかるんだよ!」

「うるさいわ」

カリスが話したりナーシェが相づちを打ったりして、少しずつ互いに打ち解けてきた頃、いきなり部屋の入り口の方から声がした。
カリスがびくりと肩を震わせてから、呆れ半分で声の主へとお叱りの言葉を投げる。 左手を腰に当て、右手にはかごのようなものを持って扉の傍に立っていたヒオという若い娘は、カリスの言葉に耳も貸さずにずんずんと部屋の中へ入ってきた。
そしてベッドの傍まで来るなり、じろりとナーシェのことを見下ろした。

「あなた、カリスに何の用? わざわざ演技して取り入ろうってわけ? 最近の女はあの手この手で、ムカつくったらないわ!!」

「・・・?」

「ヒオ! 彼女は起きたばっかりなんだ、がーがー騒ぐな。 ごめん、シェリ。 こいつはヒオっていって、きみの服を着替えさせたりしたんだ」

それまで彼女の鮮やかな登場と、肩を過ぎたあたりまである暗い茶の髪に見とれていたナーシェは、話を振られてふと我に返る。

(このひとが、わたしの世話をしていてくれたの ・・・?)

「そうよ。 あたしがあなたの世話焼いてあげてたんだからね! カリスの頼みだったから渋々聞いてたけど、目が覚めたならもういいでしょ! さっさと出て行きなさいよ! カリスに迷惑かけないで!」

「落ち着けってば! 何言ってんだ、おまえ? それにシェーリィはさっき目ぇ覚ましたばっかなんだぞ、すぐに外出れるわけないだろ!」

「シェリぃ〜!? なんでこんな女かばうのよ!? さてはあんた、カリスに何かしたんじゃないでしょうね!?」

「ヒオ!」

ヒオが飛びかりそうな勢いで色々とわめき散らしていて、それをカリスが傍から注意したり叱ったりしているのを、ナーシェはただ見つめていた。 なんらリアクションを返してこないナーシェにヒオは一層腹を立て言葉をぶつける、それの繰り返しなのだがしばらくしてナーシェはふわりと微笑んだ。 それを見てヒオもカリスも、ぴたりと動作を止める。

(まず、わたしは感謝の気持ちを伝えなくちゃいけないわ。 色々このひとにはお世話になったのだもの。 それに、同じ年頃の女の子とせっかく知り合いになれたのだもの、仲良くなりたいし・・・)

今までヒオに言われたことは正直、ナーシェはよくわからなかったけれど、感謝の気持ちは伝えたかった。
どうやって伝えればいいのだろう。 笑みを向けること、それ以外に今何ができるだろうか。
そうしてナーシェは、ひとつだけ思いついた。 人魚の世界で、ありがとうと共に添えるひとつの動作。 今はそれしか、思い浮かぶことがないのだ。 あごほどの高さで両手を合わせて、満面の笑みをヒオに向けた。 これまでの感謝の気持ちを込めて。
それが届いたのだろうか、はぁと大げさなほどに大きなため息をついて、ヒオは大人しくなった。 納得はしていないが毒気を抜かれた、そのような表情をして。

「・・・もういい、疲れた。 この人、目覚ましたんだからもう自分でお風呂入れるでしょ。 ほら、立って。 お風呂場まで案内するから」

言葉の最後はナーシェへ向けられたらしく、止めようとするカリスを横目にかぶっていたものをのけて、ナーシェはそうっと両足を床につけた。 そのまま、体の重みを恐る恐る足へと移す。 途端に襲う、足の裏から全身を貫くような激痛。

(いたい ・・・。 やっぱり消えてはいない ・・・!)

足をがくがくとさせて、表情を苦しそうにゆがめたナーシェを見て、ふたりは驚いていた。
ナーシェはそのままよろよろと扉へ向かって進み、5歩目でついにがくりと膝が折れた。 カリスがすぐさま駆け寄って、今や脂汗を流しているナーシェを抱き上げた。 それを見てヒオがまた表情を曇らせる。 けれどナーシェの状態は確かに少しおかしいと思ったから、何も言わずにいた。
ベッドへと逆戻りしたナーシェは、もう苦しくはなかったけれど少し途方に暮れていた。
まだ足が歩くことに慣れきっていない。 それではいつになったら、普通の人間のように歩けるようになるのだろう ・・・。

「・・・しようがないわね。 カリスは出てって。 この人の体拭いて、着替えさせるから」

(え ・・・?)

ヒオの言葉に驚いたカリスがヒオを見ると、それまで持っていたかごを床に置いて、ヒオはぷいと顔を横にやった。 それを見てやれやれと苦笑しながら、カリスは出て行く前に一言ヒオにささやいた。

「ありがとな、ヒオ。 それと彼女、オレ達の言うことは理解できるんだけど、話せないし文字も書けないみたいなんだ。 手荒なまねとかするなよ?」

「・・・何よそれ、あたしを何だと思ってるのよ。 わかったから、早く出てって」

ヒオは何となく済まない気持ちになったが、それをふたりに気づかれないように振る舞った。
カリスが部屋を出たのを見届けて、ヒオはナーシェに向き直る。 ありがたくも申し訳ない、というような表情を向けてくる病人に、ヒオは少しだけ心を許す気になった。 素性も何もまったくわからない上に、人間ではないような髪と瞳の色をした人を、完全に信じたわけではない。 疑いの気持ちやすっきりしない気持ちは、未だに晴れない。 けれど思い至ったのだ。
この人は話すことができず、体調も悪く他人の手を借りねばならないほどで、色々複雑な気持ちを抱えているかも知れないと。
それまでヒオは、この女の人は100パーセントカリスの気を惹こうとしているのだと思っていたから、どうやらそうではないらしいと先ほど気づいてからは、ナーシェに対してほんの少しだけ構えを解いた。

 

 

 

 

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