人間界への憧れは強く、そして夢が叶うと確信できる今だからこそ、ナーシェはひとつの気持ちを持て余していた。
嬉しさや希望や冒険心だってもちろんある。 行くのか行かないのかと問われれば、真っ先に行くと答えるだろう。 けれど、生まれ育ったこの世界を離れて、もう戻って来ることはないのだと思うと、やはりそれは寂しかった。
ナーシェにとってそれは計算違いだったというか、今まであまりにも向こう見ずに夢を想っていたのだと知った。
ちらと考えたことはあったけれど、ここまで辛いものだとまでは思わなかったのだ。
(今更こんな気持ちになるなんて ・・・わたし ・・・なんて考えなしだったのかしら)
自分から離れる道を選んだはずなのに、これは自分が持っていい気持ちではないのではないか ・・・?
そう思っても、両親や兄弟、周りの人々とこの海を置いていくのかと思うと、やはりどうしてもやるせない気持ちになるのだ。 けれど仕方がない。 大事なものを差し置いても、夢は諦めきれない。 機会を得た今、それは絶対にできない。
ここを、離れていく。
願わくば、この海とここに生きる大切な人々が、いつまでも幸せでありますように。
いつまでも、自分のことを忘れないでいてくれますように。
ナーシェは祈るような心で、願わずにはいられない。
海の魔女 ・リクシィから薬を得てから、4度目の太陽が昇った。
これまでの日々、ナーシェは今まで見つけてきた綺麗な場所をめぐったり、会いたい人を訪ねたり、すべてを記憶に残しておこうとあちこちを動き回っていた。 人魚界での思い出と記憶は、生きる場所が変わっても、生きる力をナーシェに与えてくれるだろうから。
いつも朝一番に太陽の光を浴びるあのお気に入りの岩も、珊瑚と魚のたゆたうまるで海の王座のような場所も、小さい頃に秘密基地にして遊んでいた鍾乳洞も、思い出の場所はすべて泳いで周った。
ナーシェからすれば近い親族である人魚界の王族や、お世話になった人のもとへ行ったり友達と会ったり、ナーシェは何ひとつ忘れてしまわないように、ゆっくりとすべてを受け止める。
そしてもうこれで良い、とナーシェが思ったのが、4度目の日の出を見届けた頃。
もう心残りもない。 離れていくという心決まりもついた。 体調も天気も良好。
今日こそが、旅立ちの日だ。
誰も起きださないうちに、ひとりでゆこう。 誰の顔も見ずに、何も言わないですむうちに。 会ってしまえば余計に寂しさを誘うに決まっているから。 もう十分に、みんなの顔は見てきた。 だから。
キーリエの形見のブレスレットと、いつかの誕生日にハルからもらった綺麗な真珠の髪留めだけを持って。
「行こうか ・・・」
寂しいだけじゃない。 浜辺の先には、希望ばかりのあふれる世界が待っているのだ。 もちろん、新世界への期待は抑えきれないほど大きい。 みんなが気づかないうちに ・・・さぁ、行こう。
「行こうか、じゃないだろ ・・・っ」
「えっ!?」
「おまえ ・・・! みんなに、何も ・・・っ、言わないで行く、つもりだったろ ・・・っ!」
誰も気づくことはないと思っていた、夜が明けたばかりの世界。 太陽は今し方昇ったばかりであたりは未だ薄暗く、海底の世界へ日の光が届くにはまだ少し時間がかかる。 だからみんなを、だますことができていたはずだった。
けれど、ちらとも思わなかったと言えば嘘になる。 早朝に起きだして、何度も夜明けを共に見てきたのだから ・・・ハルをだますことはできないかも知れないと。 それでなくとも、ハルはナーシェをとてもわかっているし、色々と見透かされていたから。
急いで泳いで来たのだろうか、ハルは上がっている息を整えようとしながら、ナーシェを軽く責める。
それにナーシェは、苦笑するしかない。
「やっぱりハルにはお見通しなのね」
「なぜ ・・・、何も言わな、いんだっ」
珍しく怒っている様子のハルに少し驚きながら、けれどナーシェは苦笑を更に深くする。
言えるわけがない。 言いたくはなかった。 今日旅立つと知らせてそして最後の最後、みんなを前に何と言えば良いのだろう。 ・・・さようなら? そんな言葉は、悲しすぎて言えやしない。
そう思うのに。 それなのに、ハルを前にナーシェの心には切なくも嬉しい気持ちがこみ上げてきて、同時に安堵している。
もしかしたらハルは気づいて来てくれるのではないかと、心のどこかで期待していたのかも知れない。 そしてとても気心の知れている彼に、最後に弱音を吐いて甘えさせてほしかったのかも知れない。 ナーシェはそう思い、くすりと笑ってしまった。
「わたしはいつもいつも、ハルに甘えさせてもらってばかりね」
「・・・そう自覚があるなら、少しはおれにも気を抜かせてくれよ」
ようやく息のおさまったハルは、いつものように軽くため息をついて見せる ・・・けれどいつものような調子でないことは、互いに気づいていた。 これが最後。 ずっとずっと一緒だったナーシェが、ハルが、最早傍にはいなくなる。
絶対泣くことはしないと、ナーシェは強く思う。 これ以上甘えてはだめだと。 だから、例え泣きそうな顔をしていたとしても気づかぬふりをして、ハルの左手をそっと握る。 今までありがとう、ごめんなさい、元気でいて、忘れないで ・・・すべてを込めるように、真摯に。 そして目の前の幼馴染みが何も言い出さないうちに、自分のあげられる最高の笑みで、ナーシェは最後の言葉を告げた。
「ありがとう、ハル。 どうか、幸せでいて」
丁寧に、けれどかすめるようなキスをハルの手の甲に落として、ナーシェは海へと飛び込んだ。
振り返ることはせずに、別れに痛む胸を少しの間だけ甘やかしながら、目指すのは浜辺近くの岩場。
ここから先は、新しい生が待っているのだ。
(ありがとうハル、みんな ・・・元気でいてね)
一緒に持ってきていた、リクシィからもらった長い黒のローブを上から羽織って、ナーシェは近くの岩場に腰掛ける。
(これを飲めば ・・・人と同じ姿になるのね ・・・)
リクシィから得た魔法の薬を、ナーシェは目の前にかざした。 これを今から飲むのだ。 そして人間となって、人間の世界へと赴く。
どきどきと心臓が早く打っている。 隠し切れない緊張に、ナーシェの顔は少しこわばっていた。
それほどに、願いは強かった。
幼い頃からずっと胸に秘めていたその願いが、夢が今、叶えられる。
(キーリエ ・・・わたしきっと、キーリエの分まで幸せに生きるからね)
そう祈るように、左手首にあるキーリエの分身へと呼びかける。 一緒に、精一杯幸せに生きようね、と。
そして、期待と不安に高鳴る胸を抑えきれずに胸のあたりの布を握り締めて、ナーシェはついに薬を飲んだ。
「っ!?」
体の中から急速に、煮えるような熱さがナーシェの体を支配していく。 体の奥底から熱が噴き出してくるような、自分の体に変化が起きているとわかる感覚。 しっかりと薬が作用しているのだと嬉しい反面、やはりその熱のもたらす苦痛は並のものではなく、歯を食いしばるようにナーシェが耐えているといつしかその熱はひいていった。
それまで目を瞑って痛みをやり過ごしていたナーシェは、完全に痛みがひいた頃にゆっくりと目を開く。
気を失いそうなほどの熱を耐え抜いた末に ・・・かつての人魚は、ひとりの若い娘となってそこにいた。