何ひとつ変わったことの起こらなそうな、いつも通りのけだるい昼下がり。
そんな中で、変化は訪れた。
海へと続く砂利道を、猛然と走ってくるひとつの姿があった。
とても豪華なドレスと装飾品を身にまとった若い女性が、総動員できるすべての怒りを導入しているように顔を真っ赤にしている。
その姿が、ついに砂浜にたどり着いた。
「はぁっ・・・はぁっ・・・」
苦しそうに肩で息をするその女性は、砂浜へたどり着いてから一度立ち止まり潮風に打たれていたが、その手の中にあるものを見て、再び顔を怒りに染め上げた。
「こんな、もの・・・っ!」
そう言って波打ち際に近づくと、勢いよく手の内のものを海へと投げ込んだ。
太陽の光にきらきらと輝きながら、それはぽちゃりと落ちて海の中へと消えていった。
そのものが落ちたあたりを見つめながら、女性は悲痛な声で叫ぶ。
「消えてしまいなさい!あんなものが残っているから・・・あの方は・・・今もあの女を忘れられないのよ・・・っ」
そう言って、怒りから悲しみに変わっていくその顔を、涙が伝い始めた。
見る者のない眩しい海辺で、彼女は顔をおさえてしばらく涙した。
すぐ近くの岩陰の、気配には気づかずに。
「うそでしょう・・・」
若い女性がとぼとぼと去ってすぐに、ナーシェは気づかずに詰めていたらしい息を吐き出した。
あの女性には見覚えがあった。
名前は知らないが、確か・・・王子の妻となった女性のはずだ。
キーリエの愛した、王子の妻。
彼女はキーリエを出し抜いて、見事王子の心を射止めたのだった。
幸せになったはずのその彼女が、怒りに顔を染め、そして悲痛な顔で叫んでいた。
ナーシェは白くなりかけている頭の中で、うそでしょう、とひたすら思い続ける。
それと、彼女の口走った言葉。
『あの方は今もあの女を忘れられないのよ』
この言葉が、頭の中を回り続けていた。
あの女、とは誰のことだ。
もしかして・・・もしかして・・・・・・!
(なら、あのひとは何を投げ入れたの!?)
そう思ったとたん、ナーシェは海の中へ潜りこんでいた。そして、あの女性が何かを投げ入れた地点へと急ぐ。
彼女の言葉の意味すること。それがとても気になっていた。
ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。
すぐにものが落ちたあたりへたどり着いて、ナーシェは海底の探索を始める。
太陽は天高くあっても、海の奥深くまでその光が届くことはなく、あたりは暗闇が広がっていた。けれど、それは特に問題にはならない。 なぜなら、常に海底で生活する人魚の目は発達していて、夜目以上に暗がりがよく見えるからだ。
(あった・・・!)
海底にあるはずのない異物が砂に潜りこんでいるのを、ナーシェは手で探り当てた。
さっきの女性が投げ込んだのは、これに違いない。
すぐに砂から取り出して手で払い落とすと、ナーシェは今度こそ目を見開いた。
憶測が確信に変わる。
「うそ・・・。それじゃ・・・」
それは、キーリエがずっと腕にしていた、小ぶりの薄紅の真珠がついた繊細な作りのブレスレットだった。
懐かしい思いが一瞬ナーシェの胸をよぎるが、次の瞬間には王子のことが頭から離れなくなる。
(どういうこと。なぜ今もずっと、これを王子が持っているのよ・・・!あなたの心は、あのひとへ移ったはずだったでしょう・・・!?)
どういうことだ。
王子は今も、キーリエを愛している・・・?そんなこと、あるはずがない。
もしそうならば、キーリエが泡となって消えてしまうことはなかった。
彼女が永遠にいなくなってしまうことはなかった。
王子に愛されることなく、独りで泡となって消えたキーリエのことを思うと、いつも胸が痛むのだ。
(キーリエが消えてしまった後に、今更愛してるだなんて・・・勝手すぎる!)
憤りと悲しみと空しさが、ナーシェの胸を締めつける。
キーリエのことを思って、涙が出そうな気持ちだった。けれど、人魚に涙はない。
人魚は泣くことができない。だから悲しみをひたすら胸にしまって、収まるまで抱え続けなければならない。
この感情から逃れたくて、ナーシェは全力で水面へ向かって泳いだ。そして思い切り海から飛び出しては、外界の空気を何度も深く吸った。
朝以来ナーシェの姿が見えないため、ナーシェの母フィオネは彼女のことを気にかけていた。
というのも、昼のクォッタの稽古時間にナーシェが部屋にいなかったというのだ。どんなに嫌な勉強を抜け出すことはあっても、クォッタの稽古時間に現れなかったことはないナーシェがだ。
そこまで深刻に心配しているわけではないが、万が一のことがあったら大変だと思ったのか、フィオネはハルにナーシェのことを見つけてくれるように頼んだ。
そういうわけで今、ハルは思い当たるところを手当たり次第に回ってみていた。
だが、よく出入りしている鍾乳洞にも、小さい頃からの秘密の場所である空洞にも、海上のどこにもいない。
「ったく・・・どこに行ったんだ」
呆れたように軽く息をついて、ナーシェがいつも腰掛けて水平線を見つめている岩場に、ハルは乗り上げた。
そこから360度見回してみても、やはりナーシェの姿は見えない。
少し気がかりではあるものの、嵐や人間が来ない限り海に危険はあまりないし、今は晩夏だが日が沈むまではまだまだ長い。もし海上のどこかにいるのなら、日が沈むまでには見つけられるだろう。
その前にナーシェが出てきてくれるとありがたいのだが。
しばらくぼうっと水平線を眺めていると、ハルはふっと、少し前にナーシェが言っていたことを思い出した。
『東の水平線へ向かって泳いでいくとね、そこだけとても浅くなってる場所があるのよ。周りの深い部分にはきれいな珊瑚がいっぱいあって、その浅い場所を囲んでて。なんだか海の王座って感じで、きれいな場所だよ』
大人しそうに見えてあちこち動き回るのが好きなナーシェは、暇な時間にはよく海を泳いで回っていた。
女というものは、きれいなものや輝くものが好きだ。そしてナーシェは、海のそういった部分を見つけるのがうまいとハルは思っている。
今まで彼女が見つけてきたスポットも探しつくしたし、ハルが思いつくのはその場所くらいだった。
(・・・そこにいるな)
なんとなく確信めいたものを感じて、思うが先か、ハルは再び海の中に戻って東の方角へと泳いでいった。
もしその場所にもいないのなら、諦めて大人しくナーシェを待つしかない。
もちろん帰ってきたその時は、少しくらい小言を言ってやろう。
浅くなっているその周りを、小さな魚がすいすいと泳いでいる。魚たちの下には、淡い光を受けて生き生きと輝く色とりどりの珊瑚。
ナーシェはその浅瀬に仰向けになって、目を閉じていた。
まどろみを誘うほど心地よい暖かさの中、けれどもナーシェは眠らずに考えごとをしていた。
左腕には、キーリエのブレスレット。
頭の中には、もうすでに出ている答えがあった。
それは、長い間封じていた感情であり夢を、叶えること。
せっかく今までは大丈夫だったのに、キーリエのブレスレットが押し隠していた思いを引き出してしまった。
そして今、もうそれは限界で、達成させたいという気持ちだけが胸にある。。
けれどそれを本当に開放できるのか、叶えられるのか、それだけがナーシェの頭の中を渦巻いていた。
穏やかな海流にその髪をなびかせて目を閉じるナーシェは、永遠にそこに在るような存在感と、今すぐになくなってしまいそうな儚さを漂わせている。
この場所にたどり着いて初めにナーシェを目にした時、ハルは漠然とそう感じた。
青に護られ眠る、その姿。
その美しい光景に、目が離せなくなる。
「・・・・・・・・・」
「・・・ハル?」
きっと、魅入られていたのは数秒。
けれど長くゆったりとした流れに身を置いていたハルは、かけられた声にふと我に返る。
「ここ、分かっちゃったんだ」
ナーシェは苦笑するような、落ち込んだような声で話す。
それに多少ひっかかりを覚えながらも、ハルにはまず最初に言わなければならないことがあった。
「ナーシェ・・・おまえ、こんなところで何してるんだよ・・・あちこち探し回ったんだぞ」
「え・・・どうして?」
「どうしてって・・・今日は何の日だ?」
ため息をついて尋ねてくるハルにきょとんとしていたナーシェは、少し考え込んでからあっと小さく声を上げた。
「サボったんじゃなくて、忘れてたのかよ」
「・・・うん。それどころじゃ、なかったのよ・・・」
「それどころじゃないって、じゃあ何してたんだ」
「考えごとをしてたの」
そう答えると、ナーシェはまっすぐにハルを見上げてはっきりと告げた。
「あのね。わたし・・・陸に上がる」