一日のはじまり

 

 


「ねぇ、きいてナーシェ。わたし・・・人間界へ行けるわ」

「え!?・・・それ、ほんとう?」

「えぇ。これで、あの方に会うことができる・・・」

「ほんとうなのね・・・・・・おめでとうキーリエ。やっと、願いがかなうね」

「うん・・・っ」

「やだ・・・ちょっと、泣かないでキーリエ」

「だってとてもうれしくて・・・でも、さみしくて・・・」

「・・・うん。会えなくなるね・・・・・・でも、だいじょうぶよ。わたしたちは繋がってるよ。キーリエには王子さまだっている」

「うん・・・うん・・・そうね・・・わたし、がんばって王子さまのもとへ行くわ」

「そう。・・・めげないでね、キーリエ。つらくなったら、わたしたちに会いに浜辺へ来て」

「ありがとう、ナーシェ・・・行ってくるわね」

 

目を閉じれば、つい先ほどのことのように鮮明に思い出せる、キーリエとの最後の会話。
涙に濡れた、けれどとても綺麗な彼女の笑みは、今でも忘れることはない。
彼女は今も、ナーシェの中に生きている。
一番仲の良かったいとことして。人魚界の姫として。・・・そして、羨望の対象として。

 

 

 

幾筋もの光が海中へと差し込み、海底にある人魚の世界に静かに朝を告げる。
早朝であるにも係わらず、光の筋をたどってまっすぐ水面を目指していく影がひとつ。
優雅に尾びれを動かして、時々くるくると螺旋状に光を上っていくその姿を、見るものは誰ひとりいない。

「ぷぁっ」

海面に出て、思い切り外界の空気を吸ったナーシェは、そのまましばらく、海の向こうに上ったばかりの太陽を見つめていた。
いつもと変わらない朝。いつもと変わらない空気。
すべてがいつも通りだった。

(今日も天気はよさそうね)

すぐ近くにある特等席の岩に納まってから、ナーシェは満足そうな微笑みを浮かべた。
色素の薄い、紅水晶の髪に、海の色すべてを閉じ込めたかのような深い青の瞳、そして柔らかな女性のシルエットを太陽の前に惜しげなくさらして、全身に日光を浴びる。
太陽が昇った頃に起きだして、何の気配もない静かな海で日の光を浴びるのは、ナーシェの日課だ。
ひとりそうしている時間が、一日の中で一番好きだった。
・・・誰にも干渉されることなく、物思いにふけることができるから。

そっと目を閉じる。
まぶたの裏に感じる太陽を無視して思いを馳せるのは、綺麗な笑みと、叶うことなどない幼い頃からの夢。
あの美しい人魚界の姫・キーリエは、もうこの世界のどこにもいない。

 

キーリエは、人間の王子に恋をした。
人魚が、しかも王族が人間に恋をするなんてあまりにも軽率だと、誰もが彼女の恋に良い色を示さなかった。
けれど恋する乙女の心は強く、この末姫は両親を説得して人間の世界へ行く許しを得たのだった。
そして必要になったのは、当然のごとく人間の姿になること。
キーリエは、人魚の世界のはずれにある海の魔女を訪ねることになる。
魔女は、人魚界一美しいといわれるキーリエの声と引き換えになら、人間になれる薬を譲ると言った。
一にも二にもなくキーリエはそれを承諾した。彼女にとっては、声などどうでも良かったのだ。
その気持ちは、ナーシェにもとてもよく理解できる。声を渡すくらいで人間になれるというのなら、むしろ喜ぶだろう。
けれど薬を手に入れるにはもうひとつ条件があった。
それは王子の心を得、愛を得ること。それが叶わない場合、彼女は泡となって消えてしまうというものだった。
キーリエは迷わず条件を飲み、薬を手に入れる。

尾びれの代わりに人間そのものの足を得て、彼女はついに砂浜に上がった。
そして王子と出会い、彼の心を掴むことができそうだった。声がなくとも、それは可能であるかに見えた。
けれど王子は、彼女と意思の疎通がうまくいかなかったがために愛想を尽かし、心を他の女性に移してしまった。
幾分もしないうちに、キーリエは泡となって永遠に消えてしまった。絶望と悲しみに、打ちひしがれながら。

 

キーリエは消えてしまった。
なぜなら王子に愛されるという条件を、彼女は果たすことができなかったから。
けれど、ナーシェは違う。
ナーシェは王子や人間に恋などしていない。
人間の世界に、陸に憧れたのだ。人間としての生活に憧れたのだ。
陸には、この海にはないすばらしいものが数多くある。
そしてナーシェは、もう海の世界を知り尽くしてしまった。
もっと違う世界を、この目で見てみたかった。
だからたとえ消えてしまっても、人間となって陸に上がったキーリエのことが、ナーシェにはとても羨ましかった。

 

ふいに、ぱしゃりと軽い水音があたりに響いた。
物思いに沈んでいたナーシェは、一瞬遅れてそれに反応する。

「おまえ早いな」

「ハル・・・。・・・おはよう」

顔を上げた先にいたのは、幼い頃からずっと一緒に育ってきた、幼馴染みのハルだった。
薄いハニーブロンドの短髪に、ナーシェと同じ深い青の瞳をしたハルは、その髪を光できらきらと輝かせて、ナーシェの顔を見てはため息をついた。

「またその顔」

「ん・・・」

そんなに顔に出ているのだろうかと、ナーシェは両手で顔に触れてぺたぺたと確認する。そんなナーシェを見て苦笑しながら、ハルはナーシェの隣に乗り上げた。水をはじいて、緑青色のひれが輝く。

「また考えてたんだろう。陸のこと」

「・・・・・・」

そういわれて、ナーシェは黙りこむ。その表情からは困ったというか、困惑の色が少しうかがえる。

(分かっちゃいすぎ・・・)

やはり伊達に長い付き合いではないということだろうか。
これまで本当にいつも一緒で、共に成長してきたから、お互いのことはかなり知っている。
ハルはきちんと分かっているのだろう。ナーシェがどれほど陸に憧れ、陸に上がることを夢見ているかを。そして、人魚界を味わいつくしたと感じていることも。実際、ハルもこの世界をナーシェと一緒に遊びまわったわけだから、その気持ちはハルにも分からなくはなかったが。

「気にしてたって、仕方がないだろう?」

「うん・・・」

「ほら、もう少しでみんな起き出すぞ。今のうちに身支度してきな」

「うん・・・」

これ以上ナーシェが物思いに沈まないように、ハルはナーシェにてきぱきと指示を与えた。
ばしゃんと海の中に戻って、ハルは今動くように促す。それにしたがって、ナーシェもしぶしぶ海に戻った。
そのまま、大分明るくなった海中をどんどん下っていく。
ナーシェもハルも家が近いから、ふたりして海底へと戻っていった。

頭の中で今もぐるぐる回り続ける思考はそのままに、ナーシェはすいすいと潜っていく。

 

 

 

海底の世界はようやく朝の光を受け入れ、一日は今始まったばかりだ。

 

 

 

 

2話 ブレスレット